仏教や哲学的な価値観でこの世界を分析することが好きだった。この世界とは何なのか。何のために存在しているのか。

例えば、僕らが世界と思っているものは、全て、肌や眼球や耳や鼻などのセンサーが感知した刺激を脳みそが計算して作り出した擬似世界にすぎない。

ここの概念を理解するまでが難解かもしれないが、ひとたび飲み込めば、現実が、マトリックスのような世界観とさほど変わらないように感じるだろう。

これが面白いのは、脳みその存在すら脳みそをつかって認識するしかないパラドックスである。

脳みその実在と脳みその思考が正しいかどうかを証明することは、脳みそにはできないのだ。正しいのかどうかわからない体重計で、体重を計るようなものである。

この思考方法は逆に世界に夢をあたえる。

神、幽霊、宇宙人、河童、妖精は存在しているが、人間の感覚器官で感知できないだけという可能性だ。

この世界は、夢とロマンに満ち溢れていることに気づくだろう。

この真理を正しいとするならば、人が生きる意味とは、

世界の存在のためだという答えに行き着いた。

私たちが私たちの周囲を観測し続けなければ、その世界は存在しないことになるからだ。我々の脳内の世界をみんなで保持していかなければ、世界の可能性が失われてしまう。

だが、この答えは人を救うわけではない。

真理は人を救うのだろうか。

仏教のいう苦しみをなくす方法は、欲を捨てることである。だが、欲が無い人間は生きていて楽しくはないだろう。さらに言えば、欲が無い人間は、人間といえるのだろうか。

この世界は、苦しいことも汚いことも楽しいことも綺麗なことも内包している。

生きていくのはそれなりに辛い。

難しい哲学を捏ね繰り回しても、この目前に広がる景色からは人間は逃げられない。そして、この世界は、楽しいことばかりではなくむしろ苦しみの方が強く深く心へダメージを負わせてくる。だからこそ、僕らが生きている意味、その答えは、底抜けに明るくなければならないのではないか。

人間が生きるのは、楽しむためだけだと言わなけりゃ、あまりに救われない。

そんな気もしている。

これもあくまで、平和な環境に身を置いているただの人間の戯言だ。

大陸の向こうでは、戦争が起きている。自分らより若い人間たちが祖国のために死んでいく。日本でも人はどんどん否応なしに死んでいく。

生きることに理由はいらないのかもしれない。ただ、瞬く間に流れていく時の中で、たまたますれ違った僕らは、この世界をみんなで楽しめたなら。

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