物の情報がどこにあるのか。
目の前に、赤いリンゴが落ちている。なぜあなたは、それが赤いリンゴだと思ったのか。赤くて丸くて、世間一般にリンゴとして流通している物体に似ていたからだ。本当にそれがリンゴかどうかは正確な検査を行わなければならないはずだ。
私が少し病的に真理の探究をおこなっていた時に、この考えをバイト中に考え付いた。
以下は私の思考実験の推移を記したものだ。
①仏教的な世界観を突き詰めていけば、この世界の存在を疑わざるをえない。我々は、頭蓋骨の中でみる夢を現実だと思い込んでいる哀れな脳みそにすぎない。
②だが、他人が存在していないという証明はできない。自分が実在していると仮定したとき、他人もどうように存在していると考えるべきだ。
③たとえば友人と、ラーメンを食べに行ったとき同じメニューを注文し食べればお互い同じものを食していることにはなる。ただし、味や色などの五感の共有は不可能だから、まったく同じものを食べてはいない。だがお互いにそれがラーメンであると認識はできるし、ラーメンを交換し食べても元々自分が食べていたラーメンと同じものだと認識するだろう。
④では、自分と友人のそれぞれ孤立した脳みそにラーメンをラーメンだと認識させている原因があるはずだ。
⑤それこそ、言霊のように店主がラーメンだといえば、それはラーメンという魂を宿すのではないか。もっといえば、モノをモノ足らしめている情報源、魂が存在しているのではないだろうか。
上記のように思考実験し、ついに真理を見つけた!と思ったらインド仏教が既に通った道だったのだ。
赤くて丸いモノをリンゴとして成り立たせている情報源が、どこかにあり、それを我々が受信して、それをリンゴだと認識しているというのが、アーラヤ識の考え方だ。
そして、最近量子論の動画を見て、同様の理論を唱えている人にたどり着いた。
我々の3次元世界の情報が、我々世界を取り囲む膜に記録されているという概念である。
最新の量子論の研究は、アーラヤ識の科学的な証明を目指すもののように感じられる。
我々は、何千年も前に考えられた、仏教思想の内側から未だ外にでてもいない。
追いついてもいない。
次に、仏教や人間の常識を打ち破る真理を証明できた人こそが、ブッダとなり弥勒如来へとなるのだ。
ポスト弥勒如来へのレースは始まったばかりだ。
なんか宗教チックなことを言ってしまったが、別に信仰を進めているわけではない。
ただただ、古代インドの哲学思想のものすごさを少しでも伝えたいだけなのだ。