なぜ地球があるのか。なぜ自分は自分として生きているのか。それについて考えて怖くなった記憶がある人も少なくないと思う。
今日は齢26を超えてたどり着いた現時点での答えを、あやふやに忘れてしまう前に残しておこうと思う。
『無』の存在
死ぬとどうなるのか。その問いに答えるとき、軽々しく無になると言う人が多数いる。それは本当だろうか。
『無』というものを頭に思い浮かべてみる。
『無』が在るためには、『無』を観測する観測者が必要だ。『無』が在ることを観測し確認する存在が居なかった場合、『無』すらも無いのである。
だから『無』という言葉は、世界の状態を表すことはできない。『無』とは世界の中でのみ存在できる概念だからである。
つまり『無』というものが存在したとするならば、『無』が在った瞬間から世界は在ったといえる。
宇宙の始まり
あなたが、ただただ在るだけの場に居たとする。たとえるならば、星の存在しない宇宙空間である。大きさという概念もなく、色という概念もなく、ただあなただけが居るそんな場を想像してほしい。もちろんあなたの身体も存在しない。
あなたは、「寂しい」と感じるのではないだろうか。
「寂しい」という方向性こそがこの世界の始まりなのではないか。
無数の星々や無数の生命体が、「寂しい」という思考をもったエネルギー体から生まれたとするのならばどうだろう。
我々が求める「愛」というものが、我々の大本であるエネルギーが最も求めるものだったりして。
そんな空想ゲームをしてみたりする。
そもそも僕らが、そのエネルギー体の妄想であるという可能性すらある。
始まり
いやいや、『無』というものも存在しないとするならばこうともいえるのかもしれない。
この宇宙はただ、最初から在った。そして終わりもない。
『無』は『在』を必ず伴ってしまう。これは『無』というものは存在できないということである。
であれば宇宙に始まりなどはなくビックバンなどもなく、ただただ『在』るものだといえるかもしれない。
われわれは当然のようにこの地球にいる。決して奇跡などではない。ただただ在ったので居るのだ。
死んだら答えがわかるだろうか。それは数十年後のお楽しみにしておこう。
ただただ寂しく、ただただ『在』るこの宇宙のこの星に生まれた我々は、宇宙の寂しさをただただ埋めたいだけなのかもしれない。